2023/01/13

 

 

 痛い。仕事を早退し、帰宅後にすぐ暖房をつけた。温かいお茶を入れて飲み、クッキーを何枚か食べてお腹を満たした後、胃にバファリンルナをブチ込んだ。こんなに辛い生理痛は久々でまいった。今はベッドに横たわって、あちこちオードリーを流し見ている。枕からは愛用のジャズクラブの香りがして、いつもの匂いに安心する。

 寒さは大敵だ。昔から身体は冷えやすくて、それ故冬は体調が悪い。身体はこわばって肩凝りはひどくなるし、帰宅後に暖房で部屋を暖めても、身体の芯は冷えたまま。夜は湯船に浸かることで何とか身体をあっためてから、最近は友人が誕生日にくれたワインをホットワインにしてゆっくり飲む。冬の寒さは身体に悪いけれど、こんな風にして過ごす冬の夜は好きだなあと思う。ふわふわの柔らかい毛布を被って眠るのが好きだ。

 冬になってから体調を崩すことが更に増えてしまい、休む暇なく働いていた毎日を見直して、最近は意識的に休むことにしている。でも休むって難しい。常に何かをしてなきゃ、何かしていないと許されないような気分になってしまう自分にはとても難しい。仕事が終わってからこれまで連日入れていた夜のアルバイトも控えてまっすぐ自宅に帰り、夕飯を食べた後は温かいお茶を淹れる。お風呂にゆっくり浸かった後は軽くストレッチをして寝る支度をする。ベッドで眠るまでの間は読書をして、眠くなったら明かりを消す。規則正しい夜の過ごし方のおかげで、前よりかは体調は良いし何より呼吸が深くなった。でも分かっている。規則正しいルーティンをこなせるようになったのは、意識的にそうするようにしたからというだけでなくて、必要のない人間関係を削り、段々と心が身軽になってきて、そんな風に健康を維持するために努力するエネルギーが湧いてきた、というだけ。悲しいけれど、その影響はとても大きい。

 仕事では最低限のノルマだけこなし、プライベートではストレスで不必要なことはできる限りやらない。自分がいかに健康に過ごせるかを考える。そして、大切にしたい人をこれからも大切に守り、自分を大切にしてくれる人を大切にする。体調を崩した時、自宅のドア前に置いてある風邪薬や栄養ドリンク、お菓子等が入った袋を見て、より一層そう思った。

 

2023/01/02

 

 

 年末年始は仕事だった。電車やバスは空いていて、いつもよりスムーズでストレスのない通勤だった。大晦日の日は仕事が終わった後、新宿で映画納めをしようと思ったけれど、思いがけず残業だったので諦めた。大晦日の夜に無断離院か、と苦笑いしながらさあ夜はどう過ごそうかと帰り道をとぼとぼ歩いた。 

 人が休んでいる土日祝日に働くのは嫌いじゃない。その分平日に休めるし、カフェや喫茶店が空いているのは平日だからだ。また年末年始もそれなりの手当が出されるし、誰も望まないだろうと思って志願した勤務日程だった。同業の親友も大晦日の夜は夜勤。映画は諦めたので、よく行く恵比寿のバーでオーナーと常連とお酒を飲んで、用意してもらった年越し蕎麦を食べた。ロックで飲んだシャルトリューズは思いのほか疲れた身体によく染みて、アルコールがよくまわった。店を出たのは日付が変わり、元日になった深夜だったにも関わらず、大晦日の終日運転で帰りの電車はとても混んでいた。自宅に到着し、眠る準備を済ませて慌ててベッドに入った時には3時近くだった。年末感は一切感じない大晦日だったけれど、それなりに楽しく過ごせたと思う。

 ストロングやウイスキーなど次々とお酒を身体に流し込み、泥酔していた大晦日の夜は何年前だったっけ。ワインを1本飲みきった後に気絶するように眠り、目が覚めた時には頭痛と嘔気で身体は重く、這いずるようにしてやっとトイレに辿り着き一気に吐いた元日の朝。21歳くらいだったと思う。お酒を飲む量はぐんと減ったし、過食後に嘔吐することも無くなった。色んな課題はあるけれど、前よりかは生きやすくなった気もする。というかそうであってほしい。

 思い出す。患者が言った、大事なのは'シンプルな生活を繰り返すこと'という言葉。なかなか気に入っていて、足場が崩れそうになった時に思い出してはハッとすることがある。シンプルな生活を繰り返す。今年の目標かもしれない。欲を出すなら、やりたいことをやるとかやりたくないことをやらないという発想がまるでなく、保守的で現実的な私は、今年はやりたいことをやってみる年にしたい。

 

 

 

 

2022/12/23

 

 

 

 

 この間、久しぶりに仕事帰りに泣いた。その日は患者がひとり、亡くなった日だった。精神科の開放病棟ではあまりないことで、久々の死に心が揺らいだ。職場を出て、寒空の中、駅まで歩きながらぽろぽろ涙が止まらなかった。電車の中でも止まらなくて、目の前に座っていたカップルが心配そうに私を見てきてとても気まずかった。涙が出るだけマシだと思った。安心している自分がいた。つらいこと、悲しいこと、苦しいことを全て無かったことにして、気づかないフリをして、弱い自分を最初から居ない私だとしていないと壊れそうだった。涙を流している自分は、感情と自己一致した自分だった。さみしいとか、助けてほしいとかそういうことを言えなかった。久々に降った大雨の中、やっとの思いで職場に到着したのにも関わらず、結局タイムカードを切らないで帰宅した。

 疲れた。悲しい。苦しい。よくさみしいと連絡をよこしてきたもう会うことのない人が、私が本当はさみしくて弱くて脆い人間だと教えてくれたと思う。高円寺のマクドナルド、温かいコーヒーで冷えすぎた指先を温めている時、そんなことを思い出した。明日があるから、今日は家の掃除でもして、洗濯をして、温かいお茶でも飲みながら本を読もうと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2022/12/08

 

 随分と肌寒くなり、厚手のコートを着始め、甘めの香水を使うようになった。東京の冬の空は晴れていて明るくて、冬が来た実感があまりない。新潟の冬はいつも曇っていて冷たかった。冷たい冬の夜に萬代橋から眺める信濃川が大好きだった。

 会う予定の調整をしていた大学時代の同級生である親友から「もうだめかもしれない」と連絡が来た。勤務している大学病院の消化器外科が、どうやらコロナの陽性患者で満床になったらしかった。そんな連絡をくれた時、彼女は夜勤最中で、もうだめかもしれないのひと言に、絶望感と夜中も慌ただしく機能する病棟に漂う閉塞感が伝わってきた。

 もう約2年。「そんなに大したことないよね」と話をしたのは、大学4年生の春だった。各国でコロナウイルスに感染した人々が現れ、それを知らせるテレビの画面をぼーっと見ていた。自分達とはなんら関係のない、異国の世界の出来事のように思っていた。それからあれよあれよという間に日本でも感染者が急増し、緊急事態宣言、新たなコロナウイルスの型であるオミクロン株の発見と、まだまだ勢いは止まらなくて。その間に、すっかり時が経ってしまった。そしてすっかり時が経ったことで、当初の感染すると死ぬかもしれない、酷い後遺症が残るかもしれないといった警戒は随分と薄れた。

けれどそんな中でも、今世界がワールドカップで盛り上がっている中でも、コロナの感染者数は減るどころか日々更新されている。医療機関は混乱していて、そんな中、親友は身体を張って働いている。いくつかやりとりをして、「そんなのはいいんだよ、健康で元気でいようね」と返信をした数分後、「ありがとう、生きようね」とだけ返ってきた。生きようね。私達看護師として頑張ってるよね。就職活動も満足に出来なかったコロナ禍の中。まだ未知の医療・看護の世界に、そして未知のウイルスに襲われ、混乱を極めた医療現場の中で、本当に看護師としてやっていけるのか恐怖と不安を抱いたまま、国家試験に向けて勉強をした日々。

実際に働き始めてからも、頻繁に電話をしたり直接会って話をしてきた。私が新卒で入職した総合病院を半年で辞めてしまった時、彼女は箱根の湖を見せてくれた。遊覧船に乗ってその景色を眺めている時間が、人生で1番幸せだったんだよと後で教えてくれた。

 生きようね。未知なる新興感染症にあっという間に侵食されていった日常の中で、私達よくやってきたね。彼女にまた会える日を楽しみに、きっと会えることを願って、目の前にあることをなんとかこなしていく。また会った時には、お互いが書いたインシデントレポートの数を無意味に競ったり、怖い先輩の愚痴を言いあったり、くだらない話で笑えるといい。

 

 

 

 

 

 

 

2022/08/09

 

 毎日本当に事件ばかり起きる。暴力や暴言、セクハラ、患者同士の喧嘩、何より依存対象物へのスリップ。この間は患者が外出をしたまま何日も帰ってこないということもあった。良くも悪くも飽きないけれど、なかなか大変な現場だと思う。

 毎日のようにどこかで揉め事が起こり、怒鳴り声や泣き喚く声が聞こえる。また休憩時間も相談の電話で息つく暇もない病棟には、ワン切り電話で終わらず、時には特定のスタッフを名指しにした「死ね、殺すぞ」など脅迫まがいの電話もある。過去にはスタッフに対するストーカー行為もあったらしい。本当に世の中には色んな人がいるんだなと思う。人間って感じがする。

 勤務している病棟はほぼ任意入院の患者しかいない。なので、患者が希望すれば自己判断での退院が可能になる。治療を中断、退院していく患者には医療者間との意見の食い違いやすれ違いによって怒って退院していく人も多い。いつもその背中を見送るのが本当にさみしい。やりきれないものがある。「いくら頑張っても治んないしさ、家族にも嫌な顔をされるしもう死ぬんで!じゃあね!」、と無理やり明るく振舞いながら病院を後にした患者。入院当初、危険物確認のために彼女が持参した私物のセリーヌのバッグの中身を漁っていると、中から依存症関連の書物やレジュメが大量に出てきた。中身には付箋や折り目、メモ書きがびっしり残っており、スリップをしては入退院を繰り返す彼女が、彼女なりの努力で必死にどうにかこの状況を変えようと、病気を治そうと努力してきたことが窺えた。病院を去っていく後姿を見つめながら、私はその光景を思い出して本当に悲しくなってしまった。行かないでほしいと本当は言いたかった。

 特効薬がないこの病に、より多くの回復への筋道があればいいと思う。本当にそう思う。孤独の病といわれている依存症だけれど、人はみんな孤独だから。誰がなってもおかしくないのだから。彼女が本当に死んでなければいいと思う。「“死にたい、死ぬ!”なんて言っている人は死なないからね」と上司が言っているのを耳にした。でもどうしても私にはそうは思えない。どうか生きていてほしいと思う。もちろん医療者としてだけれど力になりたいと思う。敬愛する勤務先の医師の「期待はしない、けれど諦めない」という言葉をいつも忘れないでいる。

2022/08/07

 クリニックにでもかかって眠剤を貰いにいこうか考える。けれど、眠れないのか、眠りたくないのかよく分からないし、以前内服していたマイスリーは身体にあわなかったのもあって、あまり気が進まない。眠れないのも眠りたくないのも、その日を終わらせるのに納得がいかないからのかもしれない。

 先日、ついに新型コロナウイルスに感染した。大学4年生の春頃に徐々に感染者が急増して、世界的なパンデミックとなったわけだけれど、ついに自分も感染した。症状は咽頭痛やそれに伴う咳嗽くらいで微々たるものだった。熱も出なかった。しかしながら、何より普段から多動的なのもあり、外出できないことがとてもつらかった。孤独だった。

 最近になってまた感染者が急増、日々過去最多を塗り替えているけれど、最初のパンデミックから数年経ち、随分と警戒心は薄れてしまった。なんとなく世間的にも、「もういいだろう」という空気感を感じるし、最近ではマスクを外している人も増えてきた実感がある。ウイルスが蔓延してから中止していた地元の花火大会も、今年は数年ぶりに開催されたようだ。感覚としてはインフルエンザウイルスくらいの認識レベルになってきたような気もする。いいのか悪いのか私にはよく分からない。ただ、基礎疾患を持つ人たちや免疫の低い高齢者に感染して重症化、その末に亡くなり、家族は死に目にも立ち会えない。医療者は重労働の末、肉体的にも精神的にも疲労を積み重ねバーンアウト。実際、米国では最前線でコロナ医療に従事していた医師が自殺をしている。そういった結末があってはならない悲劇だという認識は変わらない。私にはそれしか分からない。

 一応医療現場で働いているのに、この世界規模のパンデミックは、外野から余所者として遠くから眺めているような感覚で後ろめたい。政治や、今現在も続いているロシアのウクライナ侵攻にも何となく同じような感覚でいる。自分のそういった感覚をよく思わないけれど、正直自分のことでいっぱいいっぱいで毎日が苦しい。今日を生きることにいっぱいいっぱい。この間の参議院選挙も、自分はどこの誰に投票したんだっけと思いながら、ニュース番組の速報をぼんやり見ていた。疲れているんだと思う。

 

 働いている病棟の患者から初めて感染者が出た。他の病棟では既にスタッフを含めたクラスターが発生し、職員が足りず、病棟がまわらない状態だ。その日、私ともう一人の職員で約40人分の患者の鼻咽頭から検体を採取し、COVID-19判定の検査に持ち込んだ。精神科の患者というのは何をするにも一筋縄にはいかない。時には複数名で四肢を抑えつけたりしながら、やっとの思いで仕事を終えた。全身を完全防備するためのPPE(個人用防護具)を装着しての活動には限界がある。ものの5分程度で汗だくになり、N95マスクを外しても、頬に残った跡はなかなか消えてくれない。本当にいつになったら終わるんだろう。こんな風に日常になってしまう前に、とっくのとうに終わると思っていた。別にコロナだけじゃないけれど、いつなったら終わるんだろう。